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第60回 泥水をすすっても...2022:03:10:05:53:38
産経新聞大阪本社 地方部編集委員 北村 理
先日、埼玉の在宅医殺人事件についてのワークショップに参加した。
テーマは、「死亡確認後30時間たって、遺族から蘇生を求められたらどう対応するか」。
ワークショップには医師や介護職、訪問看護、宗教者など多様な人たちが参加していたが、おおむね、母親を亡くした犯人の内面にもっと迫る方法があったのではないか、といった話に終始した。まあ、犯罪事実の部分に触れずに、対応について意見を交換するとしたら、このような展開しかないのだが。
たしかに、死後30時間たって、蘇生を求める遺族は、正常な精神状態ではありえない。
そのような精神状態の遺族に対して、医学的に蘇生が不可能であることを説明し、理解させようということ自体が無理なのだろうと思う。
しかしながら、この話し合いの中でふと気づかされたことがある。宗教者の人から、「生死を語る以上、立場を超えて向き合う必要がないか。泥水をすするような覚悟が医療者に求められるのではないか」という発言があった。参加者からは「そんなことまで...」という声があがるかと思いきや、「それが在宅医療のあるべき姿、目指すべき姿だろうね」という賛意がだれしもの口をついてでた。
ところで、あなたは?と聞かれて答えたことは、「おそらく犯人に手伝わせて、亡くなった母親の体をさすりながら、夜通し、昔の思い出、母親への思いを聞いたでしょうね」と、自分でも驚くぐらい素直に答えていた。というのも、自分でそう話していて気づいたことだが、記者という仕事がそもそもそうなのだ。災害や犯罪、事故など不慮のできごとで家族を亡くした人に話をきくには、何時間もひざ詰めでただひたすら耳を傾けるしかないことがほとんどだ。そこまでして、遺族から「お役に立てるなら、書いてください」との言葉をもらう。
「寄り添う」とひとことでいうが、なかなか大変なことだ。しかし、そこから得られる共感・納得がもつ力は時に生死をも超える。
このことは、ロシアを相手に一歩もひかないウクライナの人々が示し、われわれは日々目の当たりにしている。
<2022/3/10 掲載>