第35回 ご縁をいただきました...2019:09:12:05:42:34

産経新聞社 社会部記者 北村 理
最近、「ご縁」という言葉をよく聞く。
お礼の言葉として、「よいご縁をいただきました」といわれることが多い。

先日、知り合いの和尚さんと話していて、あることで、この「ご縁」という言葉が話題になった。この和尚さんは、岩手県大槌町の曹洞宗のお寺の住職で、東日本大震災では同町の被災者のケアに寝食を忘れあたった人だ。本欄の読者でもあるという。 
話題になった「あること」とは、京都アニメーションの事件で論争となっている実名報道のことだ。和尚さんは、ひとつの考え方として、「実名報道すべきだ」という。てっきり、亡き人、家族の無念を慮り、実名報道するべきではないというのかと思いきや、意外なことであった。
和尚さんいわく、故人との「縁(えにし)」は、その家族・親族だけではない。これまで全く見知らぬ人であっても、事件の報道をみて、故人のことを想い、「縁」がつながることもある。そのとき、「名(顔)がない人」のことは想いずらい、という。多くの募金が寄せられているのも「縁」が広がっているひとつの証だろう。

昭和60年の日航ジャンボ機墜落事故をめぐってこんな話がある。犠牲者のなかに小学生の男児がいた。ひとり旅だった。母親は1人で死なせたことに悩み続けた。ある時、犠牲者のひとりの家族から連絡がきた。男児の隣に座っていた女性の母親だった。
「きっと娘は息子さんと励まし合っていたと思います」。その言葉を聞いて、男児の母親は前向きになれたという。

人は、社会に出ることで、家族の縁から離れ、社会のなかで、さまざまな「縁」を得て、人生を送る。人が自立していくにつれ濃密な「家族との縁」は必ずしも本人によいように働くとは限らなくなる。介護殺人、虐待、DVなどその典型だろう。そうでなくても、独居老人が増え、「おひとりさま」の終末期の選択が話題になる時代である。別居の家族がいても、人生の終わりにおいても家族を近づけたくない人もいる。そういう場合は、あえて家族は呼ばず本人の希望どおりにすると、在宅医はいう。

世の中が便利になるにつれ、生活は孤立していく。しかし、生活を維持するためには、人とのつながりは欠かせない。
この夏、世間を騒がせた京都アニメーションの事件は一見、突発的に起きた出来事のように思える。また実名報道の議論は事件の一側面にすぎないが、そこにすら、現代社会が抱える根本的な矛盾がみえかくれすることをみると、コミュニティの再生は、われわれにとって向き合うべき根本的な課題なのだろうと思う。
<2019/9/12 掲載>