第28回 なんで、死ぬ間際まで英語?2018:10:04:05:49:14

産経新聞社 社会部記者 北村 理

樹木希林さんが亡くなった。乳がんになってから10年。全身がんだと公表してから5年。この間の、ますます磨きがかかった、名演ぶりは書くまでもない。不思議なもので、昔のドラマを含め、最近の映画までほぼ観ている。
外から、ぼんやり、彼女を眺めていると、晩年の演技はあたかも、諦観からくる落ち着きかとみていたが、テレビドキュメントをみたら、そうでもないらしい。
寂しさを知人への手紙につづったり、美術館のお釈迦様の絵に見入っていたり...。
そりゃ、そうだろうと思う。一方で、「人の中に生きる」道をみいだしたという描写もあった。最晩年まで、映画に出演しつづけたのは、そのためか。

「穏やかな死」を迎えるために、厚生労働省は、終末期医療を話し合う機会をつくるべきだとし、「ACP」(アドバンス・ケア・プランニング)なるものを進めようとしているらしい。これは、人生の最終段階における医療や介護の方針について、家族や医療チーム、介護チームと本人が「繰り返し」話し合う。そして、本人は「チェックシート」に自分の意思を記入するのだとか。

本欄で繰り返し書いてきたが、われわれは、生きるために生きる、のであって、死ぬために生きているわけではない。もっとも、厚生労働省の取り組みは、「医師に注文をつけるのがはばかられた時代」から「いってもいいよという時代」への変革なのであろうことは分かる。
しかしながら、人生のしまい方を〝強要される〟のはまっぴらごめんだ。人の生き方を確認作業に求めること自体おかしいと思う。百歩ゆずって、自然と本人の口をついてでてくる言葉を拾うしかないだろう。そのためには、誰しもが、生前に言葉を拾ってくれる人をもつ機会が与えられるべきだろう。その議論がぬけてはいないか。
英語のチェックシートではなく、求められているのは、人にやさしい町づくりだろう。
希林さんが知人へつづった手紙や密かに通い続けた美術館は、言葉を拾ってくれる機会さがしだったのだろう、と思う。

<2018/10/04 掲載>