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第26回 浅学非才な記者だから感じてきたこと2018:06:05:05:50:00
産経新聞社 社会部記者 北村 理
がんの取材を始めて10年以上になる。
幸か不幸か、もともと、〝理系〟(そもそも理系、文系などというカテゴリーで仕事をすること自体おかしいのだが)ではないので、専門知識や用語を駆使して「医療」を語ろうなどとだいそれたことは考えない。だいたい、そんな気もない。
まあ、なにかにつけて、昔から好奇心が強く、ものごとを広く浅く、しかし、関連づけて考えてみるという個性もあるのだろうが、記者の仕事の原体験として、阪神大震災を経験したこともあるだろう。無常な自然災害を前にしては、人間の思惑など一顧だにされない、
しかし、裏返せば、「生きる」ということに関して、もっと骨太で無遠慮であるべきなのだと思っている。
もっとも、生きる知恵のひとつとして、小手先の工夫(医療でいえば、薬がきくきかないとか)も必要であることには異論はない。医療技術のベースとなる生命科学はここ10年で、人類の歴史を変えるほど進んでいるし。こういったことを、きちんと正座して学ぶことももちろん必要だ。われわれは何者かを知るために。
しかしながら、人間の本来の目的である「どう生きるのか」を選択することはまた別次元の問題であるような気がしている。
以前、読者の方からいくつか投書をいただいた中で、とても考えさせられたことがある。
ある方は奥様をがんでなくされた。診断時点で医師に余命を告げられた。途方に暮れたところで、偶然記事を読んで頂いた。この治療ならと、準備を始めたが、結果として間に合わなかった。しかし、投書には「ありがとう」と記されていた。
治療効果の成否への期待よりも、余命を告げられてなお、選択肢があることを知って、わずかばかりの時間だったが希望を感じたという趣旨のお手紙だった。
御礼をと、お電話を差し上げた。お留守だったのだが、留守番電話の声が奥様の声だった。
お気持ちを十分受取ったので、心の中で手を合わせて、電話を切った。
高度な専門知識をもった医療者の言葉より、一遍の記事が心に響いたのはなぜだろうか。
記事がご夫婦に与えた希望があったとしたら、そこから導かれた納得があったとしたら、そういった、日常生活にあるちょっとしたことが、むしろ、莫大な資金を投入して〝開発〟を進める「ナントカ医療」よりも優るのだろう。逆に、「ちょっとしたこと」が大切にされれば、医療ももっと効果的に利用されるのだろうと思っている。
<2018/06/05 掲載>