第23回 いつも心に「ふるさと」を~東北の被災地から~2015:08:27:08:07:23

産経新聞社 社会部記者 北村 理
社会運動家でもあった俳優の菅原文太さんの妻が、「出産・子育て支援もいいが、自殺防止をもっと真剣に考えるべきだ」と講演会で話したという新聞記事をみた。
至極当然の指摘だが、これまで何度も小欄で述べてきたように地域での「子生み子育て」と「より良い人生の終幕」とは表裏一体のものだということに気付かねばならない。

近年、防災や医療・介護すなわち社会のセーフティネットの再構築の必要性がいわれるが、システム構築といったテクニカルな課題に議論が終始することが多い。住宅のロボット化が近未来の介護スタイルとして話題となる最近のことだから、ITを駆使したネットワークも役にたつこともあるだろう。しかし、それらは人工物(モノ)であるがゆえに永続的ではない。しかもシステムは変化が激しく、安心のよりどころにはならない。

やはり、ひとのこころを育てることが肝要だろう。ところが、近年の学校教育は「個性化」といって他人との違いを際立たせる方向に走りがちだ。学力テストが必要以上に話題になるのもその一例だ。しかし、人との違いをみつけることは、本来、それを超えたところに「人としての共感」を大切にすることに気づき、どこのグループ(社会)に所属したとしても、そうした共感をベースに行動できる力を育むのが、本来の教育であるべきだろう。このことは、これも小欄で繰り返し述べてきたように、防災教育を取材しつづけてきて学んだことだ。命の瀬戸際で、自分の命を守ることがすなわち他人の命も救うことになり、自分が生きるためのコミュティの維持につながることに気付いた時、子供たちは勉学にいそしみ、いじめをすることの愚かさに気付くのだ。

先日、新幹線で放火して自殺した事件が発生した。その後も、高齢者どうしの暴力や殺人事件が絶えない。彼らなりに、人生をせいいっぱい生きてきたはずなのだが、70年も80年もの間、他人との「共感」に気付かず、もしくは、忘れてしまっていたのかもしれない。「共感」とは、私は、つまるところ、「ふるさと」なのだと思っている。こころの「ふるさと」を喪失しては、本来、人たりえないなずなのだが、どうも近年の様々な世相をみていると、「ふるさと」を捨てることがライフスタイルであるかのように、人々が振る舞っているようにしか思えない。

そういえば、最近、学校で「ふるさと」は歌わないようである。その歌詞には、「夢」「山」「川」「父母」「友」という人生に欠くべからざる言葉がならび、「こころざしを果たして いつの日にか帰らん」と締めくくる。まさに人生そのものである。
<2015/08/27 掲載>