第4回「「悔いなき生き様とは...(1)」2011:10:13:07:59:49
産経新聞社 社会部記者 北村 理
いかにより良い人生の最後を迎えるべきか。
人間にとってこれほどの一大命題はないだろうが、昨今、医療介護系のテレビドラマやドキュメント、専門雑誌はもとより、一般週刊誌、経済の専門雑誌でも特集を組んでいるのをよくみかけるようになった。
しかし、それらを目にするたびに、違和感を覚えることが少なくない。
それらの内容を評論、批判するつもりは毛頭ない。
ただ、我が身に振り返って、自分はどうだろうかと考えた場合、今のこの瞬間をあくせく生きているのに、なにをかいわんやと思ってしまうのである。そういえば、先日、テレビのドキュメントで、聖路加の日野原先生が、子供相手の講演会で、「ただ今この瞬間こそ、自分自身で実感できる時間であり、そこでベストを尽くすことが大切なのではないか」というようなことを問いかけていた。
ひごろ、取材をしていて、戦前~戦後の焼け跡世代の人は、だいたいそのようなことを口にすることが多いような気がする。
まあ、明日をもしれぬ激動の時代を生き抜いてきた先輩諸氏ならではの「オキテ」なのだろう。彼らの頭には「現役引退」という言葉はないのだ。「人生の最後において...」などといったことに頭を巡らすことなどみじんも感じさせない。感じさせるスキすら与えないといった緊張感を覚えることさえある。
私は、この生きていく上での「緊張感」を、「人間の尊厳」と言い換えることができるのではないかと思っている。相手からこの緊張感を奪うこと、すなわち従属関係におくこと、絶対的な支配下におくことは、人間から「尊厳」を奪うことに他ならない。
ひとつ間違えば、医療者と患者の関係でも起こりうる。
以前、東京でがんの取材をしていたとき耳にした話。末期のがんを患っていた女性が、緩和ケア病棟への入院を希望し、神奈川県の公立病院を訪れた。そのとき、医師は「これ以上の治療は、医療費の無駄遣いです」と言い放ったそうだ。その公立病院に紹介状を書いた都内の医師は、その女性の夫から報告を聞いて、「今まで自分たちが医療者として、女性と向き合い、苦労をともにしてきたことは何だったんだ」と愕然とし、診察室で号泣したと話した。
この都内の医師は現在、勤務医の一方、在宅医もしている。在宅医を始めて、「患者の生活をしらなければ、十分な治療ができているとはいえないと気づいた」そうだ。(次回につづく)